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学習院大の田崎晴明氏の解説本・・・無償配布♪

同じ地域に住むiさんから教えていただいた情報です(*^▽^*)


学習院大の田崎晴明氏の解説本・・・無償配布となっていますので
ぜひ目を通してくださいね^^

◆WEBで無償配布本◆



お知らせ | 【2012-06-22(Fri) 12:31:09】 | Trackback:(0) | Comments(-) | [編集]

木村真三氏の講演会のお知らせ

“内部被ばく”に迫る ~チェルノブイリからの報告~
現地取材をしている木村真三氏が那須塩原市で講演会を行います(*^▽^*)

「放射能汚染の現状について」 木村真三先生講演
6月29日金曜日 午後1時から2時半まで
いきいきふれあいセンター多目的ホールにて


那須塩原市議会主催のようです^^
那須塩原市議会議員の山本はるひさんのブログより

木村真三氏を少し紹介!

福島第一原発事故後、岡野眞治博士にともに福島各地を周って放射線量を測定する。

岡野博士は、
日本における放射線研究の第一人者であり、
科学技術庁長官賞を2度にわたって受賞したひとですよ(*^▽^*)
水素爆弾実験で第5福竜丸が被爆したビキニ事件から放射線と関わりがある人です。

この現地調査の様子が5月15日、
NHK ETV特集 「ネットワークでつくる放射能汚染地図」
として放映され、福島県の詳細な放射能汚染測定値が
はじめて一般に公開されました。


そして朝日新聞で連載された記事
〈プロメテウスの罠〉測定・まず僕が行くより
これで知った方が多いのではないでしょうか(*´∀`*)
すごいですね!





■研究者の辞表:1
 3月11日午後。地震の瞬間を、木村真三(44)は
川崎市にある労働安全衛生総合研究所で迎えた。
 研究所員の木村は、放射線衛生学の専門家。
医師や看護師の被曝(ひばく)調査や、
チェルノブイリ事故の現地調査に取り組んでいた。
 大きな揺れの後、木村はテレビに駆け寄って
「原発どうなった!」と叫んだ。大丈夫、とテレビは報じていた。
千葉県市川市に住む家族とは翌日の午前2時まで連絡が取れなかった。
 翌12日は土曜日だった。家族と会うことができ、
午後は3歳の長男と買い物に出かけた。家に戻ると、妻がいった。
「原発が爆発した」。瞬間、木村は反応していた。
スーツに着替え、長男に「お父さん、しばらく帰ってこないから」と告げた。
 研究所に戻って現地入りの準備をした。
住民を放射線から守るにはまず測定しなくてはならない。
それには速さが求められる。
時間がたてばたつほど測定不能となる放射性物質が増える。
急ぐ必要があった。
 準備を急ぎながら、木村は最も信頼する4人の研究者にメールを出した。
京大の今中哲二、小出裕章、長崎大の高辻俊宏、広島大の遠藤暁。
 「檄文(げきぶん)を出したんです」と木村は振り返る。
 「いま調査をやらなくていつやるんだ。
僕がまずサンプリングに行く。皆でそれを分析してくれ、と書きました」
 えりすぐりの人たち、と木村はいう。
「全員、よし分かったといってくれました。
一番返事が早かったのは小出さんです。
私は現地に行けないけれども最大限の協力をします、と。
あとの人たちからも次々と返事がきました」
 木村はその檄文を七沢潔(54)ら旧知のNHKディレクター3人にも回した。
測定したデータを公表する手段が要る、と考えていた。
 じきに携帯電話が鳴った。七沢だった。
七沢は七沢で知り合いの研究者と連絡を取りまくっていた。七沢はいった。
「特別番組を考えている。協力してくれないか」
 13日に市川で七沢と会った。打ち合わせを終えて七沢と別れたとき、
携帯に研究所からの一斉メールが入った。
研究所は厚生労働省所管の独立行政法人。文面にはこうあった。
 〈放射線等の測定などできることもいくつかあるでしょうが、
本省並びに研究所の指示に従ってください。
くれぐれも勝手な行動はしないようお願いします〉
 研究所に放射線の専門家は自分しかいない。
これは自分に向けて出されたメールだ。木村はそう思った。
自分の現地入りをとめるつもりだ、と理解した。(依光隆明)




そんな木村氏の講演会那須塩原市でも行われますので^^
足を運ばれてみてはいかがでしょうか?

100名までとなっているようなので電話予約をぜひぜひ!

お知らせ | 【2012-06-21(Thu) 22:49:58】 | Trackback:(0) | Comments(-) | [編集]

更新していない日は

今年の春、長女、次女ともに入学、入園いたしました(*^▽^*)

卒園式して入学式、入園式、運動会や学校参観。
ダブルでくるから
ダブルで参加できる楽しさもあり
あわただしさもありの
日常を過ごしています^^

20120531 040

お弁当を作る楽しさも復活してきました(*^▽^*)

心のバランスと壊れた生活習慣がなかなか
元に戻れず。。。
悪戦苦闘中。

IMGP4617_20120619125346.jpg
震災前の作品


ハンドメイドが好きで、
お菓子を焼いたり、パンを焼いたり
娘の服を作ってみたり、
外へお出かけして
一眼レフで写真を撮ってあげたりと
そんな時間を去年1年は、してあげられず・・・。




反省中であります。

ブログが更新されないときには、
生活を戻すのにがんばっているんだなっと思ってください(*´∀`*)

人生を楽しみましょう☆彡







思うこと | 【2012-06-19(Tue) 12:55:02】 | Trackback:(0) | Comments(-) | [編集]

日本とチェルノブイリの違いを考える。

答えを見つけようとしても見つけられないのが現状。
だけど、過去からの資料はとっても参考になります。

チェルノブりと日本を私が知っている限りの範囲ですが、
比較してみました。(*^▽^*)

まぁ比較というよりも、メモ程度ですが!
途中、黒文字は、わたしのつぶやきで、グレーの文字が
番組説明となっています。

ではでは

1996年4月26日のNHKスペシャル
「終わりなき人体汚染~チェルノブイリ原発事故から10年~」より
私が気になった所、印象に残ったところだけピックアップ。

ユーチューブより♪
情報社会に感謝><。


n11.jpg

汚染が5キュリー以下で、人体への影響が比較的少ないとされてきた黄色の地域に、
赤の高濃度汚染地域に匹敵する人体汚染が起きていることが分かったのです。



n7.jpg

チェルノブイリ原発の西。
ベラルーシとウクライナの国境沿いに広がるポレーシア地方は、
プリピャチ川沿いに開け、広大な森と豊かな水に恵まれた農村地域です。



汚染の高い地域から巡回してきたため、
この村の人々は、事故後10年目にしてようやく検診を受けることになったのです。
その結果、意外な事実が明らかになりました。

ゼルジンスク村の人々の体内に蓄積された放射能の量が、極めて高かったのです。

人口1000人足らずの村で、汚染濃度もそれほどでもなかったと思われたのか?
まぁ汚染地図で判断されちゃったんだろうね。。。
日本の場合は、県境で区切られちゃうのかな?(/ω\)ボソッ



n8.jpg


ゴメリ特別病院検診部 ナターシャ・ジノビッチ婦長
「ここは土地の汚染が低い地域のはずなのに、
住民の被曝量は最も汚染の高い地域と変わらないのです。
どうしてこのような高い数値が出たのか、よくわかりません」

その原因を突き止めるため、
ベラルーシ国立土壌研究所のグループが調査を続けました。



n10.jpg

その結果、原因解明の鍵は、土にあるのではないかと見ています。
一般に、土に含まれる粘土分は、放射能を取り込んで、外に逃がさない性質を持っています。

ところが、この村の土には粘土分が少なく、ほとんどが粒子の粗い泥炭です。

このため、放射能が植物に急速に吸収されやすいというのです。

n12.jpg

ベラルーシ国立土壌研究所で
実際に、ゼルジンスク村の土の放射能を測定してみました。

結果は、1068ベクレル。
汚染は、それほど高くありません。

ちなみに1000ベクレルの土壌汚染は、日本だと範囲が広いです。
我が家の庭もこれぐらいあるんじゃないかな?



牧草の放射能は?!

土の15倍、15544ベクレルにも及んでいます。

この村では、放射能が、土よりも牧草に大量に蓄積されていました。

その結果
この村に降り注いだ放射能は、
 
土から牧草へ・・・→牧草から牛へ

牛が出す牛乳から人間へ
次々と濃縮されていったのです。


ゼルジンスク村の人々は、汚染の高い地域と同じレベルの被曝を、
この10年間受け続けていたのです。

この村と同じ性質の土がポレーシア地方全体に広がり、
およそ1万平方キロ、
チェルノブイリ原発事故による全ての汚染地域の1割近くに達することが分かりました。
ベラルーシ国立土壌研究所のグループは、
人体への影響という視点から見たときに
放射能汚染地図が大きく書き換えられることになると警告しています。



私もこのドキュメンタリーを見て驚いきました。
土壌よりも植物のほうの汚染がひどい。移行がすごいね!
日本は、粘土質という土壌に恵まれたのかも知れませんね。

ちなみに、昨年の知人のおじいちゃんの郡山の田んぼの土壌は、4900ベクレル。
5000ベクレル超さなかったので、ダメもと田植えをしたようで、
秋に収穫した玄米を測ってみたら、
合計セシウムは、5ベクレル以下レベル!!!

細菌のおかげなのか?管理された稲だからなのか?
土壌が豊かなのか?
VIVA・日本♪

と安堵しそうですが、
汚染が少ないからといって
健康調査を遅らせてはいけないって思います。
調べるものは、調べねば!調査をしなければ!
と感じました。



チェルノブイリと相違点は、いろいろあると思う。
お時間がある人は、ユーチューブ見てください。
少し切なくなってしまいますが、
学ぶ点は、たくさんあるかと思います。

















チェルノブイリ | 【2012-06-18(Mon) 17:39:01】 | Trackback:(0) | Comments(-) | [編集]

NPO日本チェルノブイリ連帯基金とは。

通販生活から神谷さだ子さんを知り
NPO日本チェルノブイリ連帯基金を知ったのですが、

どんなNPOなのだろう?

チェルノブイリ原発事故汚染地への医療支援と文化交流を目的に
1991年1月設立。

写真:鎌田實理事長

鎌田實理事長


これまでに85回の訪問団を派遣、医療専門家による
医療知識・技術の伝達と医薬品や医療機器の供与を続け、
こうした支援総額は6億円を超える。
 事故後、ベラルーシ国内では小児甲状腺がんが72倍に増えた。
日本の医師団は、これまでに2200人の児童健診を実施し、
リスクの高い21人を日本に招いて精密検査を行った。
 一方、原発事故と白血病の因果関係を科学的に証明するのは難しいが、
事故後の調査で、2歳以下の乳幼児の白血病が異常に多くなったことがわかっている。

被害の子供支え15年

 第13回読売国際協力賞は、日本チェルノブイリ連帯基金(鎌田實理事長)に
贈られることが決まった。未曽有の放射能汚染が残った旧ソ連(現ウクライナ)の
チェルノブイリ原発事故から今年で20年が過ぎた。
「後遺症に苦しむおおぜいの子供たちがいる」。遠い国からの一報に、国境を越え、
体制の違いを超えて駆けつけ、15年にわたって支援を続ける日本の医師たち、
そしてその活動を支える数多くのボランティアや医薬品、医療機器メーカー。
「子供たちを助けて」との悲痛な声に応じた熱い人の輪の広がりが、
現地の子供たち、その親、そして医師たちへ感動を広げていった。

 「1人を助けても問題の解決にならないんです。
病棟の子供たちみんなが、
日本に行って治療を受けたいと思っているんです」。
ベラルーシ・ゴメリ州立病院の女性医師の思い詰めたようなまなざしに、
はるばる日本からやって来た鎌田は「ハッと目が覚めた思いがした」
と、その時のことを振り返る。

 「チェルノブイリ事故の放射能汚染で子供たちに健康被害が広がっている」。
そんな話が、長野県茅野市の病院で院長になったばかりの
鎌田の元に持ち込まれたのは、1990年暮れだった。
事故からすでに5年近くが過ぎ、日本ではその惨状もすっかり忘れ去られていた。

 半信半疑で出かけたベラルーシ(当時のソ連)だったが、
ゴメリの小児病棟で鎌田は息をのんだ。

 「この子は白血病です。この子も白血病です。この子も……」。
小児血液部長の女医タチアナ・シュミヒナの案内で回った病棟は
重苦しい空気に包まれていた。
日本ではすでに治癒率が6割以上になっていた白血病なのに、
死亡率を聞くと9割にも上っていた。

 「ここの子供たちはみんな死んでゆくんです。
昨日もとなりの部屋の子供が死にました。次はうちの子の番です。
日本に連れて行って助けて」。
涙ながらに鎌田にすがりついたのは、
8歳のウラジミール・シマノビッチの母親のエレーナだった。

 母親の涙に負けた鎌田が、シュミヒナにもちかけた。
「どうしてもというなら、日本に連れて行きます」。
この時、鎌田の脳裏にあったのは、ソ連から来日してヤケドの治療を
受けた少年のことだった。だが、意外にも、冒頭の拒絶の言葉が返ってきた。

 「日本に行けば治るというなら、私に新しい医療を教えてください。
私を信用して薬を送ってください」。
地元医師の真剣な表情からは、「子供たちを助けたい」という
強い気持ちが伝わってきた。

 国は違うが、同じ医師として鎌田にはすぐ分かった。
治療すれば完治する病気は、日本に連れて行けばいい。
しかし、継続的な治療が必要になる白血病は、
地元の医療レベルの底上げをしないとどうにもならない。

 とはいっても、このちっぽけな自分たちのグループに可能なのか。
自問自答しながら帰国した鎌田は、
信州大学医学部の小宮山淳教授(現・学長)の協力をあおぎ、
長野県松本市に「連帯基金」を設立した。

医薬品、機器…白血病治療を一から指導

 第1回の医師団が2か月後に派遣された。
白血病が専門の小池健一(現・同大小児科教授)が指名された。

 小池も、ゴメリ州立病院の小児病棟で立ちつくした。
末期の白血病の子供がうつろな表情でベッドに横たわっている。
末期だというのに、点滴のチューブもない。
感染症の防御もしていない。
かたわらに座る母親は絶望したように、ぼうぜんと、
高熱に苦しむわが子の額にぬれタオルを置いていた。

 「日本だったら、抗がん剤や抗生物質など、
最後まで出来るだけの治療をしようと、患者の体は点滴だらけになるんですが、
ここでは何もしていない。薬が足りない。助からない子供には薬もないんです」

 自分たちがやらなくてはいけないことがある。
何とかしよう。そう思った小池は、腹をくくった。
白血病の治療技術を一から移転する。大変なことだということは、
専門家の小池が一番よく知っていた。
始めたら途中で投げ出すわけにはいかない。
10年は続けなければならないだろう。

 本当に病院には何もなかった。20~30年前のものと思った
旧式の心電計は、聞いてみると数年前に買ったのだという。
国全体がマヒ状態に陥っていた崩壊寸前の
当時のソ連では、医学の進歩も止まっていたのだ。

 顕微鏡もそうだった。
白血病の診断は、白血球の数や形を顕微鏡で観察することから始まる。
ところが、日本の最新の顕微鏡しか使ったことがなかった小池には、
部屋の明かりを反射させて見るだけのソ連の顕微鏡では暗くてよく見えず、
診断ができなかった。心電計や顕微鏡、
それに、がん検診に欠かせないエコー診断計などの医療機器や
大量の薬品類を現地に送ることから始まった。

 公的な補助や大手ビールメーカーからの白血球を増やす高価な医薬品の支援、
医療機器とその保守点検の提供もあった。

 また、学校に通えない小児病棟の子供たちに勉強を教える院内学級も開設した。

 何度も来日して言葉通りに医療技術を磨いたシュミヒナは
、自らもがんに倒れ2003年暮れに亡くなった。
しかし、白血病の治癒率は大幅に改善、
移植治療まで現地の医師だけで出来るようになった。

 2000年、ベラルーシを訪れて健診をしていた鎌田は、
思いがけない訪問を受けた。
最初の視察時に「日本に連れて行って」と訴えたウラジミールと
エレーナの母子だった。少年は、17歳になっていた。

 自宅に招待された鎌田に、
母親の心づくしのロシア料理がふるまわれた。
「長い道のりだったが、続けてきてよかった」。
鎌田の胸に様々な光景がよみがえり、しみじみとした気持ちがわいてきた。

最大被災地・ゴメリ州 患者死亡率90%→25%


 ベラルーシ南東部ゴメリ州の国立放射線医学人間環境センター。
連帯基金の現在の支援先の一つになっているチェルノブイリ原発事故の
被害者治療機関で、その小児血液病棟では、白血病などの血液疾患を抱える
1歳から18歳までの約30人が闘病生活を送っている。 

写真:談笑する患者の子どもたち


小児血液病棟の遊戯室は子供たちの笑い声に包まれていた。
日本語で書かれた色紙を前に、読めるかどうかを確かめ合っている。
「私が知っているのは『愛』と『幸せ』と『健康』。
日本の人たちが教えてくれたの」とワレンチナさん(12)。
年に2~3回訪れる日本チェルノブイリ連帯基金メンバーとの交流を、
子供たちは楽しみにしている。

 「無菌室に血液冷凍庫、検査装置。
ここの医療機器は彼らからもらったものばかりです」。
ロマシェフスカヤ病棟長が感謝してやまないのは、
同基金が支援を始めた1991年、
小児血液病棟の治療環境が最悪の状態だったからだ。

 原発事故で州の70%が放射能に汚染されたゴメリ州は、
国内最大の被災地だ。だが、ソ連崩壊に伴う経済混乱で、
当時州立病院にあった小児血液病棟は医療機器や医薬品がそろえられない。
患者死亡率は実に90%にも達していた。

 日本からの器材の提供に加え、ベラルーシの医師たちが
日本で研修を受けるなどして有効な治療法を学んだ。
同基金の医師の指導で、
先進国では一般的な白血病治療「末梢(まっしょう)血幹細胞移植」も習得した。
現在の死亡率は約25%。州立病院で移植を行ったイスクロフ医師は
「連帯基金なしに、ベラルーシの血液病治療レベルの向上は語れない」と言い切る。

 小児血液病棟が2004年、
設備の整った同センターに移転してもなお、
医師たちは衛星テレビ回線を通じて日本に指導を仰ぐ。
病棟の女医が重病になった時には、基金側が医薬品を急送してくれた。
「私たちも日本も同じ被ばく国。信頼関係は変わらない」と
ロマシェフスカヤ病棟長は力を込める。

 一方、首都ミンスクの国立小児血液がんセンター。
子供の「細胞移植」は現在ここで行われているが、
責任者のストロンギン骨髄移植部長は、2年ほど前の緊急事態が忘れられない。
17歳の少年が移植後に突然、腎臓の機能障害を併発して重体に陥ったのだ。

 同センターも連帯基金から治療支援を受けている。
ストロンギン部長が衛星テレビで症状を伝えたところ、
過去11件の同症状の患者のうち、助かったのは3人という極めて
特殊な事例だと告げられた。

 治療法を教わり薬剤を調達した結果、少年は無事に回復し、
今は大学生活を送っているという。
「アドバイスがなければ彼は確実に死んでいた」とストロンギン部長は振り返った。

 それだけに、連帯基金の今回の受賞を現地の医師たちはみな大喜びしている。
ロマシェフスカヤ病棟長は「家族が受賞したような幸せな気分」と胸に手を当てた。

 小児血液がんセンターの無菌室では
、いまも頭髪が抜け落ちた少女が、うつろな表情で天井を見つめていた。

 「1人でも多くの命を救いたい」。現地の医師たちは、
今後も日本からの支援継続を訴えている。

(注)「チェルノブイリ原発事故」
 1986年4月26日未明、旧ソ連・ウクライナ共和国にあった4基の
黒鉛減速軽水沸騰冷却型炉のうち100万キロ・ワット級の4号機が、
安全確認試験中に暴走事故を起こした。
広島型原爆500発分の放射能が飛散し
、20万平方キロ・メートルの地域を汚染した。
 ベラルーシ・ゴメリ州事故対策局によると、
州の60%以上が今でも放射能に汚染され、
原発から半径30キロ圏内の立ち入り制限が続く。
同国の事故被害者は約200万人に上る。
経済損失は2300億ドル(約27兆円)。国家予算32年分に相当する。



第13回(2006年度)読売国際協力賞

(2006年10月21日 読売新聞より)



情報提供 | 【2012-06-17(Sun) 05:23:31】 | Trackback:(0) | Comments(-) | [編集]

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